「電波少年」実験の概要
1998年、22歳のコメディアン・ナスビは公開オーディションで選ばれ、日本テレビのプロデューサー土屋敏男が手掛けた過酷なリアリティ番組『電波少年』に参加した。この番組は奇抜で過酷な挑戦で参加者の限界を試すことで悪名高かった。

ナスビの過酷な体験
ナスビの挑戦は日本国内の狭いアパートに閉じ込められることから始まった。部屋にはペン・白紙のハガキ・電話・雑誌が積まれた棚しかなく、トイレットペーパーも食料も生活必需品も一切なかった。全裸になり私物を没収されたナスビは、懸賞応募だけで必需品を調達し、100万円相当の賞品を獲得した時のみ部屋を出られるよう指示された。

当時の日本はバブル崩壊後の不況期にあり、懸賞応募が社会現象となっていた。人々は賞品だけで生存可能かどうかに強い関心を抱いていた。
実験の残酷な現実

ナスビは実験の終了時期を知らされず、放送されない企画かもしれないと疑っていた。しかし24時間体制で2台のカメラが彼を撮影し続け、局部にモザイク処理を施した全裸の姿が全国に放映されていた。本人の同意なく、数百万人が彼の生存競争を見守っていた。

当初は食料も水もなく水道水で飢えを凌いだ。時間の経過と共に少量のフルーツドリンクや5kgの米を獲得するが、炊飯器がなく飲料パックを容器代わりに原始的な方法で調理せざるを得なかった。
生存競争の苦闘

次第に賞品は不合理さを増していく。タイヤ・ゴルフボール・地球儀・映画チケット・ぬいぐるみのアザラシなど過酷な環境では役立たない品々。極小サイズの女性用下着さえ届けられた。
実験開始9ヶ月目、ようやくVHSテープを獲得し初めてテレビを視聴。しかし身体は衰弱の一途を辿った。

80日目には米が尽き、糖分入り飲料とドッグフードで飢えを凌ぐ。数週間ウェットタイプのドッグフードを食べ続け、心身共に衰弱していった。
心理的ダメージ
ナスビの試練は15ヶ月続いた。1998年1月から1999年3月まで部屋に閉じ込められ、目標金額達成で解放される。外に出たナスビは自らが有名人になっている事実を知る。当時日本の総人口1億2600万人に対し、番組は週間視聴者数3000万人超を記録していた。

挑戦達成に誇りを感じつつも、ナスビは深く搾取されたと感じた。長期の隔離は躁うつ病を発症させるほど深刻な精神的苦痛を与え、不眠症と鮮明な妄想に苛まれた。宇宙人に拉致されたと錯覚し、自殺を考えるまで追い詰められた。
地獄の再訪:韓国編
ナスビが試練の終了を信じた矢先、制作陣は彼を韓国へ連行。祝福の旅行と思いきや、再び全裸を強要され新たな挑戦が始まった。今度は日本帰国費用を稼ぐことが課せられた。
「人生が終わった」と懇願するナスビを無視し、3時間の説得の末4ヶ月間の過酷な挑戦を強要された。

衝撃の真実
帰国後、別のアパートに連行され再び全裸を強要されるナスビ。再び「地獄」に戻ると覚悟した瞬間、壁が崩れファンで埋め尽くされたスタジオが現れた。ナスビは国民的スターとなっていた。
数百万人が彼の全裸挑戦を見守り、ナスビは1000万円を獲得。当時の日記はベストセラーとなった。しかし名声を得てもファンと向き合えず、栄養失調・言語緩慢・視線回避に悩み、回復に数ヶ月を要した。
後遺症と反省

番組終了後、ナスビは深刻な後遺症を告白。実験中の毎日が地獄で「二度と経験するなら死を選ぶ」と語った。ドアは施錠されていなかったが、心理的に閉じ込められた状態が続き、挑戦を続けたのは「安全な選択」と考えたからだと明かした。
ナスビによれば、制作チームは一切の支援を行わず、同情を示したのは司会者2名のみ。謝罪がなされたのはずっと後年のことだった。
時を経てナスビはトラウマと向き合い、ネガティブな感情を前向きな行動に転換。福島の故郷支援のためエベレスト登頂や、COVID-19パンデミック時のメンタルサポートを実施した。ただし『電波少年』のような番組には二度と関わらないと断言している。

エンタメの残酷さへの考察
ナスビの体験は『ザ・コンテスタント』と題されたドキュメンタリーにまとめられ、映画祭やストリーミング配信で公開された。この作品はリアリティ番組の残酷さに警鐘を鳴らし、エンターテインメントの境界線について議論を巻き起こした。
監禁・暴露・プライバシー剥奪・24時間パフォーマンスの強要——これらはエンタメの名の下に行われる残酷な行為だ。娯楽の追求における倫理的な境界線はどこにあるのか。私たちは真剣に考える必要がある。